2006-5-3 22:30
yubar
十二国记
序章
世界の果てには虚海と呼ばれる海がある。この海の東と西に、ふたつの国があった。常には交わることなく、隔絶されたこの二国には、ともにひとつの伝説がある。
──海上遥か彼方には、幻の国がある、と。
そこは選ばれた者だけが訪ねることのできる至福の国、豊穣の約束された土地、富は泉のように湧き、老いも死もなく、どんな苦しみも存在しない。一方の国ではこれを蓬莱と呼び、もう一方の国ではこれを常世と呼んだ。
互いに異界に隔絶されたその二国、蓬莱国と常世国の双方で、ひとりの子供が目を覚ました。──ともに深夜のことである。
※
彼はふと、話し声で目を覚ました。暗闇の中、ぼそぼそと声が這う。父親と母親の声が家の外から聞こえたのだ。
家といっても、四本の棒の間、壁と屋根の代わりに筵を張っただけの粗末なものだ。寝床は土の上、虫の音が盛んな頃だけれども、くるまる布さえない。間近の兄姉の体温だけがよすがの寝床だった。以前住んでいたのはもっとましな家だったが、その家はもうない。焦土と化した都の隅で灰になってしまった。
「……しかたない」
父親の声は低い。母親は、でも、と口ごもった。
「そりゃあ、一番下だけれども、あの子は聡いから怖い」
彼は闇の中でぴくりと体を震わせる。自分のことを話しているのだと分かって眠気が飛んでいった。
「だが……」
「分別もあるし、知恵もまわる。同い年の他の子は、まだろくにしゃべれもしないっていうのに。まるでどこかから下されたみたいで」
「そりゃあ、そうだが。しかし、それにしたってまだまだ子供だ。きっとなにが起こったか分からんさ」
「そうじゃなく。あの子を死なせたら祟りそうで」
子供は襟をかきあわせる。暗闇の中で小さく丸くなって眠ろうとした。ふたりの声を聞いていたくなかった。彼は生まれてまだ四年と少ししか経っていなかったけれど、何の話なのか分かってしまったので。
声は続いていたが、彼は強いて聞かないようにした。意識から追い出して、無理にも眠りに落ちていく。
父親が、坊、と顔をのぞきこんできたのは、その二日後だった。
「お父は用事に行く。坊もいっしょに行くか?」
どこに、とも、なんで、とも彼は訊かなかった。
「うん。いく」
そうか、と父親はどこか複雑そうな表情で手を差し出した。彼はその手をしっかり握った。大きな手のごつごつした感触に包まれて、家を離れ、一面の焼け跡を歩いた。衣笠山からさらに奥に分け入り、斜面を何度も登り降りして、さすがの彼もどこから来たのか分からなくなった頃に、父親はやっと手を放した。
「坊、ここにいろな。すぐに戻る。待ってろ」
うん、と彼はうなずく。
「いいか、動くんじゃねえぞ」
うん、ともう一度うなずいて、何度も振り返りながら林を去っていく父親の背を見送った。
──動かない。かならず、ずっとここにいる。
彼は拳を握って、父親が姿を消した方向を見つめていた。
──ぜったい、家にかえったりしないから。
その誓いのとおり、彼はその場を一歩も動かなかった。夜になればその場に眠り、ひもじくなれば手の届く範囲の草をむしって根を掘った。飲むものは夜露でこらえた。三日目には、動きたくても動くことができなかった。
──大丈夫、ぜったい、もどったりしない。
戻れば両親が困ることを、彼は理解していた。
都は燃えつき、あたりは死者の骸で敷き詰められた。父親を雇っていた男は西軍の足軽に殺された。職もなく、家もない一家がこの先生きていくためには、働くこともできず、ただ食べるだけの子供を、ひとりでも減らさなくてはならないのだ。
彼は目を閉じ、意識が混濁するにまかせた。眠りに落ちる前に獣が草をかき分けるような音を聞いた。
──ここで、待ってる。
一家がなんとか生き延びて、落ちついて、幸せになって、それでふと彼のことを思い出して、弔いのためにやってきてくれるのを待っているから。
いつまでだって、待っているから。
※
彼は夜中に目を覚まして、人の話し声を聞いた。眠くて眠くて、どんな話だかは聞き取れなかった。ただ、母親がみんなから責められているのだということだけが分かった。助けてあげなきゃ、と思いながらまた眠りに引き込まれてしまった。
その翌日、母親に手を引かれ、子供は里を出た。
彼には父親がいない。母親は、父親は遠くの国へ行ってしまった、と教えてくれた。住んでいた廬が焼け、母親と彼は里に行って、里の隅の土の上で眠るようになった。たくさんの人間が集まっていたが、ひとりずつ欠けていって、やがてはほんの数人になった。子供は彼だけだった。
母親を除く大人たちは、彼に冷たかった。いつも邪険に殴られ、冷たい言葉を浴びせられた。特に彼がひもじいというと、必ずそうなのだった。
母親は彼の手を引き、声を殺して泣きながら、焼けただれて荒れ果てた田圃の中の道を歩いた。やがて山に入り、林の中を分け入っていった。こんなに遠くまで、彼は来たことがなかった。
林の中で、母親はやっと彼の手を放した。
「ちょっとここで休もうね。……水はほしくない?」
喉が渇いていたので、彼はうなずいた。
「いま水を探してくるから。ここで待っていておくれねえ」
歩くのにも疲れていたので、母親がいなくなるのは不安だったけれど、うなずいた。母親は何度も彼をなでて、そうして突然離れると、小走りに林を駆けていった。
彼はその場に座り込み、やがて母親が帰ってこないのに心細くなって、母親を探して歩き出した。母親を呼びながら、つまずきながら林をさまよったけれども、彼には母親の行方も帰り道も分からなかった。
寒かった。ひもじかった。いちばん辛かったのは喉が渇いたことだった。
泣きながら母親を探して歩いた。林を出て海岸に沿って歩き、やがて日も暮れる頃に彼はやっと里を見つけた。母親を探して里の中に駆けこんだが、見慣れない人々に出会っただけだった。どうやら違う里に来てしまったようだと、それだけが分かった。
男がひとり、彼の側に寄ってきた。泣きじゃくる彼から事情を聞いて、頭をひとつなでてくれ、水と食べ物をほんの少し与えてくれた。
それから男は周囲の人々と目を見交わし、彼の手を引いた。彼がこんど連れていかれたのは海の縁だった。青い海の向こうに、壁のように高い山がずっと続いているのが見える。崖の突端まで来ると、男はもう一度彼の頭をなで、ごめんよ、とつぶやいて、彼を崖から突き落としたのだった。
彼が次に目を開けたとき、暗い穴の中にいた。潮の匂いがぷんとして、それに混じって嗅ぎ慣れた腐臭がした。それは死体の臭いだ。彼はあまりにそれに慣れていたので、特に怖いとも思わなかったし、不審も感じなかった。
濡れた体がただ寒く、ただ寂しかった。近くで何かが身動きする音がしたので、そちらを見やったが、暗闇のせいで、小山のような影が見えただけだった。
彼は泣いた。怖かったのはもちろんだが、やはりなにより寂しかったのだ。
ふいに腕になま温かい息がかかった。彼がぴくりと震えると、次いでふわふわしたものが腕をなでた。鳥の羽毛の手触りにそれはよく似ている。この暗い場所には何か大きな鳥がいて、それが彼の様子をしきりにうかがっているのだった。
驚きのあまり彼が体を硬直させていると、それは温かな羽毛を押し当ててきた。まるでくるむようにして翼の中に抱え込む。あまりにそれが温かかったので、彼は羽毛にしがみついた。
「阿母……」
ただただ母親を呼んで泣いた。
※
──虚海の果てには幸福があるはずではなかったか。
蓬莱も常世も結局のところ、荒廃に苦しむ人々が培った切なる願いの具現に過ぎない。
虚海の東と西、ふたつの国で捨てられた子供はのちに邂逅する。
ともに荒廃を背負い、幻の国を地上に探していた。
2006-5-3 22:41
yubar
一章
1
──折山、という。
天を貫く凌雲山の、その巨大な峻峰でさえ折れようかというほどの荒廃。
六太は呆然と山野を見渡した。かつて一度見たこの国は、これ以上荒む余地などないかのように見えたのに、以前よりさらに酷いこのありさまはどうだろう。
薄く雲を浮かべた空は高い。残酷なほどの明るい空の下、夏が来ようとしているのに、地上には緑も紅もありはしない。砂漠のように荒れ果てた農地。小麦が緑の海を作っていなければならないのに、麦はもちろんのこと、はびこる雑草までもがない。ひび割れた大地と、そこにまばらに立ち枯れてそよぐなんとも知れない草は、いったいいいつ枯れたのか、暖かな黄味さえ失っている。
畦は崩壊し、廬のあった場所にはただ地所を囲む石垣があるばかり。その石垣もあちこちが壊れ、?#092;々と焦げ、さらにはそれが風雨にさらされ、くすんだわびしい色を晒している。
丘の麓に見えるのは里。里の隔壁もまた崩壊し、中の家々もわずかの瓦礫になってしまっている。廬を守り、里を守る樹木の一本さえ残ってはいなかった。火にあぶられて燻し銀の色に変じた里木だけが里の奥にぽつんと立って、その気の根元にいつまでも身じろぎさえせず幾人かの人影が座りこんでいる。まるで置かれた石のように、誰ひとり動かない。
その里木の上を数羽の鳥と、それより多い鳥に似た妖魔が旋回していた。里木には葉も花もつかない。ただ白いだけのまばらな枝ごし、上空から妖魔が狙っているのが見えていないはずはないのに、誰ひとりそれを振り仰ぎもしない。里木の下にいる生き物を獣も妖魔も襲わない。だからといって、無視できるものだろうか。もはや妖魔に恐怖を抱くこともできないほど、その人々は疲弊しているのだ。
山の緑は焼きつくされ、川は溢れ、廬という廬、里という里が灰燼に帰した。すでに実りを望める土地はなく、その荒れ果てた土地に鍬を入れようとする民もいない。翌年の実りを期待して働くには、彼らはあまりにも疲れ果てていた。鍬を握ろうにも飢えた手には力が入らず、ましてや助け合って体を支えあうほどの数もない。
旋回する妖魔のほうもその翼が萎えがちだった。妖魔もまた飢えているのだ。見守る六太の目の前で一羽が落ちる。魔物でさえ食い荒らすことのできなくなった荒廃だけがそこにはある。
折山の荒、亡国の壊。
──この雁州国の、あたかも終焉のような。
先帝は諡号を梟王という。即位して長く善政を布いたが、いつのまにその心に魔がきざしたのであろう、やがては民を虐げ、悲鳴を聞いて悦ぶようになった。町の角ごとに兵を置き、これを耳目として、王の不満を言うものがあれば即座に捕らえて一族縁者に至るまでを街頭で処刑させた。反乱があれば水門を開けて一里を水中に沈め、あるいは油を流しこんで火矢を放ち、嬰児に至るまでを殺しつくした。
一国の諸侯は九。心ある諸侯は王によって誅殺され、もはやとどめる者もない。
これに心を痛めた宰輔が死病の床に就くと、天命はつきたと自ら傲然と言い放って、自己のための巨大な陵墓を建設させた。役夫をかき集め、二重の長大な濠を掘らせ、掘りあげた土砂と惨殺した役夫の死体で見上げるほども高さのある広大な陵を築いてみせたのである。死後の後宮に侍れと、殺された女子供はその数十三万とも言われる。
梟王が弊れたのは陵墓の完成間際、すでに国は荒廃し、塗炭の苦しみに喘いでいた万民は、崩御の知らせを聞いて声を合わせて快哉を叫び、その声は他国にまで届いたという。
民の期待は次王に向かったが、次王はついに登極しなかった。この世では王は麒麟が選ぶもの。神獣麒麟が天啓をうけ、天意にそって王を選ぶ。選んでのちは王の臣下にくだり、間近に控えて宰輔を努めるが、その宰輔が、王を探し出すことのできないまま三十余年の天寿つきて弊れてしまったのである。開檗以来、八度目の大凶事であった。
王は国を統治し、国の陰陽を整える。王が玉座にいないだけで、自然の理は傾き、天災が続く。梟王によって荒廃した国土は、この凶事によってさらに荒廃した。すでに人々は悲嘆を叫ぶ余力もなかった。
──そしてこの荒廃がある。
六太は丘に立ったまま、視線を転じて傍らに立つ男を見上げた。男はただこの荒土を眺めている。
六太は号を延麒という。子供の姿をしていても、その本性は人ではない。この雁国の麒麟、傍らの男を王に選んだ。
──国がほしいか。
六太はこの男にそう訊いたが、国は傾き、すでに治めるべき土地も民もないに等しい。
──それでもよければ、おまえに一国をやる。
ほしい、と言い切った男は、いまこの廃墟と化した土地を見て何を思っているのだろう。よもやこれほどの荒廃とは思っていなかったにちがいない。
嘆くか、怒るか。──そう思って見上げた男は、見つめる視線に気がついたのか、ふいに六太を振り返った。そうして笑う。
「みごとに何もないな」
六太はただうなずいた。
「無から一国を興せということか。──これは、大任だ」
いっこうに難儀を感じていない調子でそう言う。
「これだけ何もなければ、かえって好き勝手にできて、いっそやりやすいことだろうよ」
男はあっけらかんと声をあげて笑った。
六太は俯いた。なぜだか、泣きたい気がしたからだ。
どうした、と訊いてきた声がおおらかで温かい。六太は大きく息を吐いた。押しつぶすほどの重量で肩にのしかかっていたものがあったことをやっと知った。それが消え去ったいまになって。
さて、と男は六太の肩に手をのせる。
「蓬山とやらに行こうか。大任をもぎとりに」
もはや肩に感じるのは男の掌の重みだけ。生を受けて十三年。十三年ぶんの命が背負うにはあまりに重い一国の?#092;命を、任せるべき相手に委ねることができたのだ。──それが良きにしろ悪しきにしろ。
六太は軽く肩を叩いて離れてゆく男を振り返る。
「──頼む」
何を、とは言わなかったが、男はただ笑った。
「任せておけ」
2
「……緑になったよなぁ」
六太はぼんやり宮城の露台から雲海越しに見る関弓の緑に見入っていた。
新王登極から二十年。国土はなんとか復興に向かいつつある。
雁州国、その都、関弓山。王宮である玄英宮はその山の頂上にある。一面に広がる雲海の中に浮かんだ小島である。
空の高所には雲海があってこれが天上と天下を隔てる。天下から見上げても水のあることは分からない。凌雲山の山の頂に打ち寄せた波頭が白く雲のように見えるだけだ。天上から見ればうっすらと青みを帯びた透明な海、その深さはほんの身の丈ほどに見えるのに、潜ってみてもとうてい底にはたどりつけない。その雲海の水を透かして地上が見えた。小麦が作る碧い海。山々によみがった緑、廬や里を守る木々。
「二十年でこんだけ、って言い方もできるけど」
六太は手摺に両腕をのせて、腕の間に顎を埋めている。雲海の水が露台の脚にぶつかり、音を立てて崩れては潮の匂いを打ち寄せていた。
「──台輔」
「ま、こんだけでも上出来か。玄英宮に入ったときには真っ?#092;な地面以外、なーんも見えなかったもんなぁ……」
かつては一面の焦土だった。二十年をかけてとりあえず緑が目立つ程度には、国は立ち直り始めている。他国に脱出していた人々も徐々に戻って、農作業する人々が声を合わせて歌う声が年ごとに大きくなっていた。
「台輔」
「──んあ?」
六太は手摺に肘をついたまま振り返った。書面を持った朝士がにっこり笑う。
「おかげさまをもちまして、今年の麦は良い出来のようでございます。台輔におかれましては、ご多忙のさなかにまで下界へのお気遣い、民に代わってお礼申しあげますが、拙官の奏上にもいま少しお気遣いいただけますと、さらに嬉しく存ずるのでございますが」
「聞いてるって。どんどん続けて」
「失礼ながら、いま少し真摯にお耳をお貸し願えないでしょうか」
「まじめ、まじめ」
朝士は深い溜め息を落とした。
「そのように子供じみた格好をなさらず、せめてこちらをお向きください」
六太が腰を下ろしているのは露台に置かれた陶の獅子の頭の上で、これはいささか椅子には高い。気がつけばもてあました足をぷらぷらと揺すっては欄干を軽く蹴っている。
六太は背後に向き直って、にっと笑ってみせた。
「おれ、まだ子供だしー」
「御歳お幾つにおなりで?」
「三十三」
齢三十を過ぎた地位のある男のすることではないが、外見ならば十三かそこらに見えるだろう。別段奇異なことではない。雲海を見下ろして暮らす者は総じて歳をとらないものだからである。六太に限り、もう少し歳をとってもよかったはずだが──麒麟は普通、十代の半ばから二十代の半ばで成獣になる──、玄英宮に入った頃からぴたりと成長が止まってしまった。外見が成長しないと中身も成長が滞るのか、はたまた他者が外見に従って子ども扱いするからなのか、気性のほうもやはり十三のまま、少しも成熟した感がない。ちなみに歳は夫役の関係から満で数えるのが習わしである。
「責任ある御方が、壮年にお入りになって、いまだそのありさまとは。宰輔といえば王を補佐して民に仁道を施すのがお役目、臣の中では唯一公爵位をお持ちになる長身の筆頭、いま少しご身分を自覚していただきたいものです」
「ちゃんと聞いてたってば。漉水の堤防だろ? でも、そういうことは主上に言ってもらわないとなー」
朝士は細く形のいい眉をぴくりと動かす。色白で痩身の優男だが、この外見に騙されてはならない。氏は楊、字は朱衡、王自ら下した別字を無?#092;という。無?#092;の字はゆえのないことではない。
「……では、おそれながらお訊きしますが。その主上はどちらにおいでで?」
「おれに訊くな。関弓に降りて女でも引っかけてるんじゃねぇの?」
朱衡は柔和な顔に微笑を浮かべた。
「台輔はなぜ朝士の拙めが、漉水の話をさせていただいているのか、お分かりでないようですね?」
「あ、そっか」
六太はぽんと手を叩く。
「治水のことは、しかるべき官から言ってもらわないと。おまえの仕事じゃないだろう?」
朝士は警務法務を司る官、特に諸官の行状を監督するのが務めである。治水工事ならば土地を司る地官の管轄、少なくとも地を整える遂人か、さらに形式を言うなら、地官長もしくは六官をとりまとめる冢宰が奏上するのが筋であろう。
「ええ、わたくしの仕事ではございませんとも。しかしながら、延はこれから雨期、治水が至らねば台輔がただいまお慶びの緑の農地も、ことごとく沈んでしまうのでございます。一刻も早くご裁可をいただかなくてはならないものを、肝心の主上はどちらにおいでなのでございますか?」
「さー?」
「この件に関しまして、今日この時刻をご指示なさったのは他ならぬ主上でございます。責任ある御方がお約束を反故になさるとは。王は諸官の模範となるべきお方でございますのに」
「あいつはそういう奴なんだってば。ほんと、でたらめなんだもんなー」
「主上は国の御柱、その大柱が揺らげば国も揺らぎましょう。朝議にもおいでにならない、御政務のお時間にもどちらにおられるか分からない。そんなことで国がたちゆくとでも思し召すのですか?」
六太は上目づかいに朱衡を見上げた。
「そういうことは、尚隆に言ってほしーんだけど」
朱衡は再び柳眉を震わせて、いきなり書面で卓を叩く。
「──台輔が今月、朝議にいらしたのは何度ですかっ?」
「えーと……」
六太はじっと手を見て指を折る。
「今日と、こないだと、……それから」
「お教え申しあげれば四度です」
「お前、よく知ってるな」
朝士は朝議に参加しない。それほど高位の官ではないのである。六太が半分、呆れた気分で見上げると、朱衡はたいそう柔和な笑みを浮かべた。
「それはもう、王宮の端々で諸官が嘆いておりますから。──朝議というのは、本来毎日あるものなのですよ、ご存知ですか?」
「それはー」
「それを三日ごととお決めになったのは主上でございましたね。三日ごとといえば月に十度。もはや月が終わろうというのに、台輔のお出ましがあった朝議がわずかに四度とはどういうわけでございますか?」
「えーと」
「主上におかれてはわずかに一度! 主上も台輔も国の政をいかが思し召しか!」
ごつん、と激しい音がした。露台で椅子が倒れた音である。六太が見ると、いつのまにか遂人の帷湍が控えていたらしい。その帷湍も額に青筋を立てて肩を震わせている。
「どうして、王宮におとなしくしていないんだ、この主従は!」
「帷湍、いつのまに来てたんだー?」
六太の愛想笑いは凍てつくような視線でもって迎えられた。
「まったく、この浮かれ者どもが。雁が成り立っているのが不思議だぞ!」
「大夫、大夫」
朱衡が苦心交じりにたしなめたが、帷湍はすでに踵を返している。
「大夫、どちらへ」
「──ひっとらえてくる」
足音高く出ていった異端を見送って、六太は溜め息をついた。
「あいにく」
朱衡は微笑って六太を見る。
「拙も帷湍ほどではございませんが、たいへん気の短いほうで」
「あ、そお?」
「朝議にはお出ましにならないゆえに、いっこうにご裁可がいただけず、帷湍めがあえて奏上申しあげれば、後日にせよとおっしゃる。今日この時刻をご指定いただいたものの、待てど暮らせどおいでにならない。本来ならば、そういったときにこそ王を補佐するお役目の台輔にお聞き届けいただかなくてはならないものを、その台輔までがうわのそら」
「えーと」
「再度このようなことがございましたら、拙にも覚悟がございます。畏れおおくも主上といえど、台輔といえど、容赦いたしませんのでそのおつもりで」
「あはははは……」
力なく笑って六太は頭を下げる。
「悪かったです。反省します」
朱衡はにっこりと笑う。
「苦言を心広くお聞きになる、それはたいへん結構でございます。本当にお分かりいただけましたでしょうか?」
「分かった。ほんと」
では、と朱衡は懐から書物を出して六太に向かって差し出した。
「この太綱の天の巻、一巻には天子と台輔の心得が書いてございます。反省の証として朝議をお休みになったぶんだけ書写なさいませ」
「朱衡ぉ」
「明日までに一巻を六部でございます。──よもや嫌とはおっしゃいませんでしょうね?」
「そういうことをしてたら、政務が滞るんじゃないかなー?」
上目づかいに見上げた優しげな顔は、けちのつけようのない笑顔を浮かべる。
「いまさら一日滞ったところで、大差はございませんよ」
3
朱衡は風を受けながら、王宮の道を歩く。内宮から退出したところだった。
雁は四州北東の国、寒冷の土地である。冬は北東からの乾いた季節風にさらされて寒く、夏は?#092;海から吹きこむ冷たい風にさらされる。季節は夏を経て秋が忍び寄ろうとしている。?#092;海からの風は日増しに弱くなって、太陽に温められた大地の温みが大気をも暖めている。夏は涼しく、雨がなく、植物の繁茂には適さないが、そのかわりに秋が長い。ふわふわといつまでも暖かくて、北東からの条風が吹き始めると、いきなりのように寒くなるのだ。
王宮は雲海の上だから、下界の気候とは関係がない。それでもいまはまだ、下界の風もこれと大差ないだろう。これから雁は秋に向かい、秋の終わりにひと月ほどの雨期がきて、雨がやむと条風が吹く。それは戴国から乾ききった震撼するような冷気を?#092;んでくるのだ。
「漉水か……間に合うといいが……」
朱衡は雲海の西を見やった。雨期が来るまでに漉水の治水がなるか。
漉水は関弓のある靖州から?#092;海沿岸元州に向かって注ぐ大河である。元州には平野部が多い。季節毎に氾濫を繰り返す漉水が作った肥沃な平野だった。?#092;海に面する沿岸部一帯は梟王が堤を切って以来、人の住めない土地になってしまったが、念願の帰国を果たした人々が開拓をはじめて、かなりの数の村落ができていると聞く。元州州侯の手には負えない。有名無実で治水を行う実権がないのだ。現在まだ先帝が任じた州侯は整理されておらず、そのほとんどの実権を取り上げられてしまっている。
軽く溜め息をついて足を進めていると、ちょうど帷湍が石段を上ってくるのに行き合った。
「──いかがでした」
朱衡が笑い含みに問うと、帷湍はキッと顔をあげる。
「首根っこを掴んで連れ戻してきた。内宮で衣服を改めておられる」
ならば一緒に禁門を通って内宮に行き、そこで話をすればよかろうに、この男はわざわざ正門を通って戻ってきたらしい。雲海の上に浮かぶ玄英宮には直接出入りできる門がひとつしかない。これを禁門といい、麓関弓から登る道にある五門を正門という。本来禁門は王と宰輔しか通行できないのだが、帷湍は禁門を使う特権を下賜されている。なのに、そういうところだけは堅苦しい男である。
「ならば、わたしも戻りましょう。ひと言申しあげねば」
「がっちりとっちめてやれ。──どこにおられたと思う?」
「さて」
「関弓の妓楼で賭博に興じて、有り金を巻き上げられたそうだ。借金のかたに?#092;騎を取られて戻るに戻れず、そのぶん庭掃除をして返すのだと箒を握っているところを捕まえた」
朱衡は声をあげて笑った。
「尚隆さまらしい。──それで借金を立て替えてきたのですか」
「踏み倒すわけにはいかんだろう。だからといって、返すまで下働きをさせられるか。まさか正直に王だと言って、許してやってくれとも言えまい。あれが時刻の王だと知ったら、連中は落胆して号泣するぞ」
「──でしょうねえ」
雁は一度滅びたとさえ言われる。それほど荒廃が深かった。新王の践祚は国民の悲願だった。その悲願がそのありさまでは、本当に落涙する者もあろう。
「まったくあの、のんき者が」
王を相手に、これだけ悪態を言ってのける者もいないかもしれない、と朱衡は苦笑した。
帷湍はもともとは田猟といって、人民を管理し、納税のための台帳を整備する官だったが、革命にあたって遂人に抜擢された。それも、王自ら猪突という字を下して、あらゆる特権を与えてのことである。帷湍は王の寝所に立ち入り、禁門を使用し、内宮の奥まで騎?#092;して行くことができ、王の前で平伏しなくてもいい。──だが王を罵っていいという特権などはなかったと思うのだが。
「鷹揚なお方だから、あなたも首が繋がっているのでしょう?」
新王が玉座について、玄英宮の諸官は新王に慶賀を述べて拝謁した。その誉れある祭典のさなかに、帷湍は戸籍を鷲掴みにし、王の足元に投げ捨てたのである。
朱衡が言うと、帷湍は嫌な顔をした。
「……古い話を持ち出すな」
──かつて、天帝は地を開き、十二の国を興した。人を選んで玉座に据えた。これが王、天帝の意を受けて選んだのは麒麟である。
麒麟は一国に一、揚力甚大の神獣であり、天意を受けて王を選ぶ。その麒麟が生まれるのが世界中央にある五山東岳蓬山、自ら王たらんと恃む者は蓬山に昇って麒麟に面会する。この麒麟に面会して天意を諮ることを昇山という。
──なぜ、と帷湍は戸籍を玉座の壇上に叩きつけた。
「なぜ登極に十四年もかかった。麒麟は六年もあれば王を選べる。貴様がもたもたと昇山せずにいたせいで、八年もの歳月が無駄になった。これはその八年分、関弓の戸籍だ。八年の間にどれだけの民が死んだか、その目で確かめろ」
新王登極に浮かれていた場は、一瞬のうちに静まり返った。
異端は玉座の王を見る。彼はただ興味深そうな表情で、階の上に投げ捨てられた戸籍と帷湍を見比べていた。
八つ当たりだったのかもしれない。帷湍はただ、雁の窮状を王に知っていてほしかった。信じがたいほどの荒廃だった。玉座の埋まった王宮には光があふれていたが、下界には死と荒廃が蔓延している。誰もが新王さえ践祚すれば、と望みをつないでいたけれども、帷湍にはそれだけで国が立ち直るとはとうてい信じられなかった。
無礼な、と死を賜ることなど覚悟のうえだが、帷湍とて死にたかったわけではけっしてない。梟王の圧政を、王に背かず、道にも背かず、王の不興もかわぬよう、かといって良心に悖ることもないよう、それは綱渡りするような気分でかろうじて生き延びてきたのだ。
新王が践祚した、これで全てがよくなると、官の誰もが言う。だが、すでに起こったことをなくすることは王とてできない。死んだ命は返らない。それを忘れて浮かれている官が恨めしかったし、きっと登極した喜びに浮かれているであろう王が恨めしかった。
これで自分が死んでも、晴れがましい場で起こったこの不快な出来事を王は忘れることができないだろう。諸官は登極早々臣下を斬る王を見て、梟王の暴虐を思い出し、少しは浮かれ気分をおさめるだろう。根拠もなくめでたいを連発する連中の、胸に落ちる一個の不快な石になるならそれでよかった。
異端は新王を見る。新王は帷湍を見る。しばらくの間、その場には空気の流れさえ絶えた。凍りついて動かない人々の中で、最初に動いたのは新王だった。ふ、と笑って御座を離れ、こだわりもなく戸籍を拾いあげる。軽く埃を払って帷湍に笑った。
「目を通しておく」
帷湍は呆然とし、しばらくその男を見つめていた。護衛する小臣らにその場を引きずり出され、時の地官長大司徒に官籍を剥奪された。おとなしく家に帰り、処分を待って謹慎していた。逃げる気にはなれなかったし、兵が門前を固めていたので、そもそもそれはできなかった。
自ら謹慎すること五日。門を叩いた勅使は勅命を携えていた。いわく、復職を許し遂人に叙すと。呆然としたまま拝謝のために昇殿した帷湍に、猪突猛進なやつだ、と王は笑い、のちに猪突と字を下賜し、今日に至っている。
「──わたしは当時、官席を賜ったばかりの小官だったけれども、その噂を聞いてその場に居たかったと心底思ったな」
朱衡がさもおかしそうに笑うので帷湍は憮然とする。他人にすればさぞ面白い噂話だろうが、帷湍にすれば笑うどころの話ではない。本気で死ぬ覚悟だったのである。
さすがにその当初は帷湍も王を敬って、愚痴ひとつ言わないという敬虔さだったが、あっという間にそれも絶えた。殊勝にしていては身がもたない。賭博で有り金をなくし、政務に戻ってこれない王に対していつまでも頭を下げてばかりいられるものか。
「なんと懐の広い方だと、感動した自分が憎いぞ、俺は。懐が広いわけじゃない、単にのんき者なんだ、あいつは」
「帷湍殿、口を慎まれたほうがよろしくはないか? いま少しご身分を弁えられて、礼をお忘れにならないほうが御身のためかと」
「──お前にだけは言われたくないな」
帷湍は朱衡を見る。朱衡はもともと春官の一、内史の下官だった。王が内史府を巡視したときに、王に対して朱衡は言ったという。
すでに謚は用意してある。興王と滅王がそれだ。あなたは雁を興す王になるか、雁を滅ぼす王になるであろう。そのどらちがお好みか、と。
帷湍が指摘すると、朱衡は軽く笑った。
「なに、大夫のまねをしたまで。どうやらそのほうが出世のためのようだったので」
「それは通らんな。あれは登極三日目のことだろう。俺はまだ謹慎中だった」
「そうでしたか? いや、寄る年波のせいで物覚えが悪くて」
お前な、と帷湍は朱衡の済ました顔をねめつけた。彼らはともに若いが、それは外見だけのこと、すでに年波を語ってもおかしくはない実年齢になった。
「そのわたしが朝士ですからね。いやはや、なんとも主上はお心が広い」
──どっちも嫌だな、と王は答えた。
朱衡の無?#092;の動機も、帷湍の動機と大差ない。朱衡もやはり、死を賜る覚悟だった。そもそも朱衡は国官ではなく、国官の内史が己のために雇い入れた府吏、王に向かって直接口をきくことさえ罪に値するのである。怒ってこの場で死を命じるか、それとも。
見守る朱衡の前で新王は顔をしかめた。
「どちらも断る。そういう凡百の言葉で名づけられたのでは恥ずかしくてしょうがない」
え、と問い返す朱衡に王はまじまじと視線を向けた。
「史官というのは、その程度の文才で務まるのか? 頼むから、もう少し洒落た名前を考えてくれ」
「ええ……あ──はい」
「お前、史官に向いていないのではないのか?」
そうかもしれません、と恥じ入った朱衡の許に勅使が来た。よくても解任かと肚を括っていた朱衡を内史の中級官である御史に召し上げ、のちに秋官朝士に任じたのである「──俺とお前が側近だからな。ひょっとしたら王は、単に減らず口をたたく奴が好きなだけなんじゃないのか?」
帷湍の言葉に朱衡は笑う。
「本当に、そうかもしれません」
笑ってから、朱衡は表情を改めた。道をやってくる足音を聞いたからである。
やってきたのは冢宰とその府吏、朱衡も帷湍も礼に従って道を譲り、軽く頭を下げて冢宰らを通す。俯いた頭上にその声は降ってきた。
「はて、この道は内殿に向かうと思ったが」
これ、と府吏のひとりが朱衡らに声をかけてきた。
「こんな所で何をしておられる。まさか道に迷われたのか?」
朱衡も帷湍も返答しない。内殿にまで昇殿を許されている官は限られている。二人の官位では本来、内殿に入ることを許されない。ふたりは王から直々に特権を得ているが、これは破格の待遇なのである。特待を妬んで皮肉を言うものなどいくらでもいる。朱衡も異端もすでに慣れていた。
「これから内殿に向かわれるのか?」
は、と帷湍が短く返答すると、冢宰らは聞こえよがしに溜め息をついた。
「やれやれ、では、主上は御政務どころではございますまい」
「これからお気に入りとお遊びの時間じゃ」
「お邪魔をしてはお叱りがある。まったく、いつになったら御政務にお就きになるやら」
「誑かす下郎がおるからのう」
俯いたふたりの前を嘲笑が通り過ぎる。おそらくは東の府邸へ戻るのだろう、引き返す足音が絶えるのを待って帷湍が顔をあげた。建物の間を縫う石畳を見やって低く吐き捨てる。
「……どっちが下郎だ。梟王から位を買った奸臣どもが」
朱衡は苦笑した。奸臣という言い方は不当ではない。梟王が道を失い、政務に興味を示さなくなったのをいいことに、官は専横を極めた。あるものは金で官位を買い、そうして支払った以上のものを国庫からかすめ取った。梟王の歓心ほしさに暴虐を諌めるどころか
煽りたて、みすみす国土を荒廃せしめた。
「皮肉を言うぐらいしか能がない連中だから、よしとしてあげなさい」
「王が遊びほうけているのは、俺たちが唆しているせいだと思っているのだぞ! あいつが放蕩者だから俺たちまでが悪し様に言われる」
歯噛みする帷湍に対して、朱衡はなおも苦笑するにとどめた。
「悪し様に言われるのは、しかたのないことでしょうねえ」
帷湍は遂人、位で言えばたかだか中大夫にすぎない。冢宰は候、四位も下の遂人ふぜいが様々の特権を与えられ、冢宰の自分が王に面会するのにもいちいち取り次ぎを頼まなくてはならないのだから、腹に据えかねて当然だろう。朱衡などは帷湍のさらに下、下大夫にすぎない。
「しかたないですます気か。あのうつけ者をなんとかしろ!」
「わたしに言われても困ります」
「だいたい、成笙が悪い。いちばん近くにいるんだから、首根っこ捕まえて玉座に括りつけておけばいいんだ」
王の身辺警護の者にまで悪態をつく帷湍を、朱衡はやや呆れた気分で見やった。
「そんなに腹を立てるほどのことですか?」
「お前は腹が立たんのか。王に遊興をすすめる?#092;臣のように言われているのだぞ! あげくには龍陽の寵などと!」[#入力者注:「龍火の寵」とは男の家臣を愛妾として可愛がること]
「それは、お疲れさまです」
「莫迦野郎! お前がそう言われているんだ!」
朱衡は笑って、次いで声を低める。
「口さがない連中には言わせておきなさい。そろそろ主上は諸官の整理を考えておられます」
帷湍は石段を上る足を止めた。
「いよいよか」
「内政はほぼ落ちついて、行くべき方向は定まっています。道は敷かれた。あとはただ輛を走らせるだけです。これまでに諸官整理にまでは手が回らなかったけれど、どうやら諸侯諸官をすげ替えてもいい時期にきたようです」
州侯および諸官を任じたのは梟王である。新王践祚の際にこれを全部罷免し、新官を登用してもよかったが、それに時間を割かれることを惜しんで、あえてそのまま残してある。州侯の実権だけは制限し、各州に牧伯を置いて監督させ、官のほうは側近だけを厳選してしのいできたが、いつまでも梟王のもとで阿諛と追従によって安逸を貪り、民を虐げることに荷担していた連中をそのままにはできない。
「朝廷は荒れます。罷免されずにすんだと多かを括っていた連中は、あわてふためいて暗躍を再開するでしょう。どこでどう足元をすくわれるやら分からない。しばらくは愚痴を控えたほうが」
「……二十年か。よく保った。あんな連中でも多少は心を入れ替えたらしい」
「なに、国庫から利をくすねようにも、くすねる財がなかっただけですよ。ですが、最近妙な動きをする官が増えましたね」
「冬の間、土の中にもぐってやり過ごしていた連中が、ようやく冬を過ぎて動き出したというわけだな」
帷湍は付近の建物に目をやった。
「長い冬だったが……」
雁国民悲願であった新王登極のあの頃、まだ玄英宮は金銀の輝く壮麗な宮城だった。いまのこの宮には華美なところがない。幽玄の宮などと言われているが、王が全ての装飾、金銀や財宝を──それこそ玉座の石まで──はがして売り払ってしまった。それほど雁は困窮していたのである。建物の数も半分近くに減った。王が解体し、材木から石材に至るまで売り払ってしまったのだ。関弓山の峰に続く屋根の?#092;色だけが、あの頃と変わっていない。
王宮は初代の王が天帝から賜ったという。ゆえに憚り、歴代の王は王宮に手を加えることはしても、取り壊したりはしてない。王朝の歴史そのものである建物の、装飾を身ぐるみはいだのみならず、解体して売り払うというのだから官の狼狽はただごとではなかった。
やれ、のひと言で命じた王は、梟王の元で国庫の富をかすめ取り、私服を肥やした連中を放置した。諸侯諸官を解任し、その私財を押収することは可能だったが、あえてそれをしなかった。そんなことをしている余裕さえなかったのだ。荒廃した国土から収穫があげられるよう、地を治めるほうが先だった。
田畝は焦土と化した。そこに鍬を入れても、耕した民の生活を支えられるほどの実りがあるようになるまでに二十年がかかった。王宮の御物を他国に売り払い、蔵の中の物という物、それこそ兵の小太刀にいたるまでを売り払って、かろうじて食いつないできた。
──預けておいたと思えば良い。ああいった連中は貯めこむことに熱心だから、さほど損失はないだろう。派手に使っている者だけを取り締まれ。時が来れば一気に返済してもらう。
王はそういった。その時が来たのだ。
「のんき者だが、莫迦ではない」
帷湍が低く言うと、朱衡は軽く笑った。
「有能だがでたらめだ、ぐらいにしておいてあげなさい」
4
その有能だがでたらめな雁国王は、内宮の私室で四人の人間にこんこんと諭される羽目になった。
「……お前たちの言い分はわかった」
尚隆は周囲の四人を見比べる。帷湍は憮然として自王をねめつけた。
「分かっただけか」
「反省した」
「俺はあれほど恥ずかしい思いをしたのは初めてだぞ。この恨み、滅多なことでは忘れんからな」
「まったく、まったく」
帷湍の背後からしたりという風情の合いの手があがったが、これには帷湍は構わない。本当に、と朱衡が溜め息をついた。
「主上にあってはご自身のお立場をいかが思し召しなのですか。国の帆たる王がそれで、いかにして諸官を治めるおつもりです。模範となるべき御方が、このありさまでは。拙とて民に顔向けができません」
「だろう、だろう」
まったくの無表情で滅多に開かぬ口を開いた男がいる。
「呆れ果てて開いた口が塞がらぬ。こんな愚王に使われる己までが不甲斐ない」
「酔狂、お前まで小言か?」
字は酔狂、別字を成笙という。褐色の肌をもつ痩身の小柄な若い男だが、軍事を司る司馬の官、特に王の身辺を警護する小臣の長、大僕である。梟王によって禁軍将軍に登用され、知略に優れ武道に秀でること比類なしと言われた。梟王に諫言して捕らえられたが、あの昏帝でさえ殺すことを惜しんで幽閉させた。梟王が弊れてのち諸官が石牢から出そうとしたが、本人は王によって投獄されたのだから、王の赦免がなければ出ないという。そのまま新帝によって赦免されるまで錠の下りてもいない牢に五十年近く居座りつづけた剛の者である。
「……そういう、くだらない名を勝手につけないでいただきたい」
「気にいらんか?」
「あたりまえです」
憮然とした成笙を、帷湍は恨めしげに見た。
「お前はまだましだ。俺なんぞ、猪突だぞ」
王から直々に字を下賜されるといえば、これ以上の名誉はないが、その名誉の中身が猪突だの酔狂だの無?#092;だのでは、ありがたみなどありはしない。さらに言えば、尚隆が麒麟である宰輔六太に下した字は馬鹿という。馬と鹿の間のような生き物だからいいだろう、と尚隆はそう言ってひとり悦に入っていたが、認知するものがいようはずもないのである。
まったく、と帷湍は苦々しげな顔をする。
「軽佻浮薄とは、こいつのことを言うのだ」
「しかり、しかり」
今度は、三者がいっせいに背後を振り返った。
「台輔も同罪です!」
いきなり冷たい視線を浴びて、無責任に合いの手を入れていた六太は首をすくめる。
「おれは別に、賭事なんてしてないぞっ」
「では、朝議をお休みになった間、どちらにおいでだったのか、お聞かせ願いましょう」
朱衡に迫られて、六太は愛想笑いを浮かべた。
「──視察。国がどのていど復興しているか、とかだな」
「では、その成果をお聞かせくださいませ」
「えーと……」
「主を裏切るからだ」
ぼそりと言われて六太は自王を見る。
「そもそもお前が遊び歩いているからだろーがっ。おれまで小言を言われてんだぞ、冗談じゃねえや」
「そういうお前もサボっているんだろうが?」
「てめーほどじゃねぇよっ!」
「五十歩百歩という言葉を知っているか?」
「似たようでも五十歩の差は確実にあるって意味だろ?」
だん、と朱衡は卓を叩く。
「いま少し真面目にお聞きいただきたいのですが」
分かった、と尚隆は手をあげる。
「反省した。政務はさぼらぬ。──それでいいのだろう?」
「ご本心でございましょうね?」
「西のほうがキナ臭いことでもあるしな。しばらくおとなしく玉座を温めている」
四者がいちように尚隆を見た。
「──西」
「元州だ。出てくるぞ」
帷湍は背後を振り返る。帷湍らが集うときには必ず人払いをしてあるが、誰もいないことを改めて確認する。
「……それは」
「街で仕入れた。元州は近頃ずいぶんと羽振りがいいそうだ。月に何度も元州師の兵がやってきては妓楼に大枚を落としていく。来るときは手ぶらだが、帰るときには大層な荷があるそうだぞ」
「関弓で何かを仕込んで──?」
「食料なら問題はないが、武器だったとしたら?」
しかし、と朱衡が首を傾ける。
「?#092;反の備えになるほどの武器が調達できるとも思えません。街じゅうの武器を買い漁れば、それこそ噂になりましょう」
尚隆は笑って成笙を見やる。
「関弓には王師の武庫があるな」
成笙は目を細めた。武庫を管理する官が武器を横流ししていないか。梟王が武庫にかき集めた武器の数は尋常ではない。それを売り払い、国庫の足しにしてきたが、あまりに大量の武器が出回ったせいで、のちにほとんど値がつかなくなった。それでいまも、武庫には武器がうずたかく積まれている。
「しかし、元州候は」
朱衡の声に帷湍がうなずく。
「梟王の勘気を恐れ、梟王が弊れてからは民の報復を恐れ、いまに至っては主上の罷免を恐れて内宮の奥深くに隠れたまま出てこないと聞いている。気を病んでいるという噂も」
「……窮鼠猫を噛むというからな。思いつめた奴のほうが怖い。そのうえ元州には切れ者の令尹がいるだろう。元州候の伜だ。──斡由といったか」
帷湍は瞬いた。
「よく知っているな」
「街で仕入れたのだ。民の噂話というものは、そんなに侮ったものでもない」
「なるほど……」
感心したような帷湍をちらりと見やって朱衡は軽く咳払いする。
「おそれながら、主上」
「なんだ?」
「王ともあろうお方が、わざわざ民草の間にお降りになって、間諜のまねなどせずとも良いのです!」
やれやれというように天井を見上げた尚隆を笑って、六太は席を立った。
「──どうした、六太」
六太は部屋を退出しながら振り返る。
「おれには向かない話になってきたから、出てる」
2006-5-3 22:48
yubar
二章
1
王と帷湍らを残して、六太は露台に出る。すでに陽が落ちて、誘拐は暗い。東のほうから細い三日月が昇ろうとしていた。
「……血生臭い……」
おそらく戦いになるのだろう。諸侯も諸官も、なかなかに腹?#092;い連中が揃っていたから、これまで内戦が起きなかったほうが不思議だ。
血生臭い予感を風に流しながら、六太は庭を歩く。気分が沈んでしまうのは、生来、戦いや流血が嫌いだからだ。
──任せておけ、と尚隆は言った。だが、戦いは嫌だ。たくさんの兵が死んで、罪もない民が巻き添えをくう。
小さな宮の側まで来て、六太はなんとなくその門扉を押し開ける。微かにきしんだ音を立てて門が開く。門番の詰め所はあるが、人の姿はない。本来なら不寝番がいるはずだが、王宮には人が少なかった。梟王が殺しつくしてしまったのだ。それで数の少ないところに、新たな官を登用していないものだから、王宮はどこも閑散としている。
前院を抜けてさらに奥の堂屋に入る。そこには小さな院子がある。白州の中に立っているのは一本の白銀の木だった。低く枝を垂れた姿。まるで銀で作ったようなその枝の色。
──この木から人は生まれるのだ。
子供がほしい夫婦はこの木に子を願う。天がそれを聞き届ければ、枝に卵果と呼ばれる果実がなる。子供はその中に入っている。子供が孵るまで十月、しかし孵る前に流されてしまう卵果がある。
六太はそのようにして流された。尚隆もまたそうだ。災異に呑みこまれ──これを蝕という──本来別世界であるはずの、あちらとこちらが交わったおりに、あちらへ流されてしまった。流された卵果は異界で女の腹にたどりつく。父母によく似た肉の殻をかぶせられて、母親から生れ落ちるのだ。そうして生まれた子供を胎果という。
六太はそのようにして流され、海の彼方の異界、蓬莱の都に流れ着いた。父親と母親と祖父母と、兄姉があった。自分が本来、いてはならない子供だとは思ってもみなかった。
家が焼けたのは、六太がうんと幼い頃だ。煙の充満した家から転がり出ると、都はあたり一面火の海になっていた。火から逃げまどって一夜を明かした。姉のひとりと祖父母をそれで亡くしてしまった。
戦火を逃れて都の西のはずれに住んだが、家には蓄えもなく、戦乱の渦中の都には父親が求める職もなかった。兄のひとりが死に、一番下の姉が死に、六太は山に捨てられた。一家が生き延びるためにはしかたがなかったのだ。
こちらの世界から迎えが来たのはその山の中、飢えて渇いて死にそうになっていたところだった。六太はそれでかろうじて生きながらえた。だが、迎えがあったのは、六太が特別の生き物だからだ。──麒麟という。
もしも六太が麒麟でなければ、あのまま山野に弊れていた。同じようにして死んだ子供は多かったろう。あの時代、あの場所、子供が捨てられるのは珍しいことではなかった。
──折山の荒廃。
戦火は人を不幸にする。やっと緑の蘇ったこの国に、再び戦乱が起こる。それを思うと息も詰まるほど苦しい。
荒廃する山野、流される血、親を失い、あるいは生活に困窮して弊れていく子供たち。
尚隆が登極する前、国土を見たいとそういった。丘の上から見下ろした大地には何ひとつ残っていなかった。あれからわずかに二十年しか経っていない。あの頃の子供たちは親になっている頃だろうか。王も麒麟も王に仕える諸官も、寿命のない生き物だから時を忘れてしまうけれども、それだけの時間が下界では流れたのだ。
山野に捨てられた子供は今ごろどこでどうしているだろう。ひょっとしたら、また彼らを苦しめた不幸が同じ者に降りかかるのかもしれない。
六太は天を仰ぐ。相談していたのは夜更け、六太は目覚めてそれを聞いた。同じようにして夜更けに目覚めた子供があった。この国の話だ。
──十八年前、他ならぬ元州のことだった。
2
六太は悧角の背にまたがっていた。悧角は六太が己の僕として支配下においた妖魔である。ただ麒麟だけが妖魔を支配することができる。──だが。
疾風の速度で空を駆ける悧角の背にまたがり、元州の沿岸をうろついていて、六太は人にすれ違った。性格に、妖魔に騎?#092;した子供とすれ違ったのだ。
驚いたなどというものではない。巨大な狼には翼があり嘴がある。それはおそらく天犬と呼ばれる妖魔だろう。その背にもひとりの子供がいた。ともに疾風の速度、交わったのは一瞬だけ、まさしく、邂逅である。
「戻れ、──追え!」
六太は即座に使令に命じた。
「台輔、あれは妖魔です」
悧角の警告に、六太はうなずく。
「分かってる。だから戻るんだ。麒麟の使令ならともかく、どうして妖魔が人を?#092;せる。とんでもない話だぞ、それは」
海上を探し、赤毛の妖魔にまたがった相手に出会った。子供は六太の追いついたのをみとめ、怯えたように身をすくめたが、妖魔のほうが奇声を発して殺意をみなぎらせると、太い首を背中から抱いてそれを押しとどめた。
「──だめ。だめだよ」
歳の頃は六太よりも少し下だろうか。青みを帯びた?#092;い髪に、青白い顔の小柄な男の子だった。麒麟なら髪は金だ。六太のように。これは麒麟の本性、鬣の色なのだから。
おい、と声をかけるとびくりとする。相手が怯えているのを悟って、六太は極力人好きのする笑顔を浮かべてみせた。
「お前、誰だ?」
子供は青い顔で首を振る。海上は冷たい風が吹きすさんでいる。子供は襤褸のような布を幾枚も身体に巻いていた。
「おれは六太ってんだ。こんなとこで会うなんて奇遇だよな。おれ、空の上で誰かに会ったのなんか、初めてだ」
子供はうん、と小さくうなずいた。子供もまた空で人に会ったのは初めてだという意味だろうか。
「お前、どっかに行く途中か? 急ぎの旅か?」
これにもただ首を振るだけで答える。六太はにっと笑ってみせた。
「おれ、どっかで昼飯、食おうと思ってたんだ。よかったらお前も一緒に食わないか?」
子供はきょとんと目を見開いた。
「……一緒?」
六太は笑ってうなずく。下の浜を示した。手を差し出したかったが思いとどまった。不用意に何かをすれば逃げられてしまいそうだったのだ。
「嫌か?」
六太が訊くと、子供は妖魔の顔をうかがうようにする。首をかしげてその顔をのぞきこんでから、小さくうなずいた。
「……いいよ」
「そいつ、妖魔だろ?」
浜に降り立って、果物や餅を転がし出してやりながら六太は子供に問うた。妖魔を手懐けるなど、聞いたことがない。あってはならないことだと聞いている。
子供はただ首を傾けた。
「そうなの?」
この返答には仰天した。
「妖魔と妖獣以外に、空を飛ぶものがいるか。どうやって飼い馴らしたんだ?」
「知らない」
「知らない、って、お前な」
呆れてつぶやき、六太は肩の力を抜く。
「……驚いた」
「そうなの?」
「うん」
浜に座って話をした。目の前には?#092;海、世界中央を大きく囲む金剛山の峰々が壁のように立ちふさがっている。
子供は夜更けに目覚めた。そして翌日、山に捨てられた。そんな話を彼は語った。
うなずきながら、六太は驚くべき邂逅に喘いでいる。異世界の子供がふたり、互いに戦乱に困窮した親に捨てられ、ここで巡り合った。
「里の連中が捨てろといったんだろうなぁ。……大変だったな」
「そうかな」
「お前、名前は?」
「知らない」
かつてはあったのかもしれないが、覚えていないと子供は言う。
「それで流れついたのが、妖魔の巣穴だったのな」
「流れついたんじゃなくて、大きいのに?#092;ばれたみたい」
「大きいの?」
こいつ、と子供は背後の妖魔を振り返った。妖魔はおとなしく子供を見守っている。
「大きいのは餌を巣穴に?#092;んでくるの。たぶんそんなふうにして?#092;ばれたんだと思う」
「お前、餌のつもりだったのかな。──でも、育ててくれたのな」
そう、と子供はうなずく。呆れた話だ。前代未聞と言っていい。妖魔が子供を養うなんて。
「そういうことって、あるものなのか?」
六太は自分の背後に控えて警戒の色濃い目つきで妖魔を見守っている悧角を見やった。これに対する返答はない。たとえ使役されても、妖魔は自分たちのことを語らない。どんなに命じても己たちの種族について、いっさいを漏らさなかった。本来妖魔はそれほど隔たった生き物なのである。
六太は追求を諦めて子供に向き直った。
「でも良かったな。死なずにすんで。──それからずっと巣穴に住んでるのか?」
「ときどき出るけど。ご飯を食べに」
「大きいのは人を喰わないのか?」
六太は訊いたが、その返答は分かっていた。妖魔からはかなり離れているが、濃厚に血の臭気がする。これは人の血の匂いだ。
「……食べるよ。でないとお腹がすくでしょう」
六太は軽く喉を鳴らした。
「……お前も、喰うのか?」
子供はしゅんとうなだれた。
「食べない。人も獣も。……大きいのにもそう言うんだけど、聞いてもらえない」
だってね、と子供はどこか縋るような目で六太を見た。
「人や獣を襲ったら、人がみんな怖がるもの。だから大きいのはいつも人から追いかけられるの。みんな追いかけて酷いことをする。そうでなければ逃げていくの」
だろうな、と六太はうなずいた。無理にも笑って子供をなでる。
「でも偉いぞ。人は喰っちゃだめだぞ。襲わないにこしたことはない」
「うん。──六太はどこから来たの? 海のこちら側?」
そうだ、と六太がうなずくと、子供は身を?#092;り出した。
「──じゃあ、蓬莱を知らない?」
え──?」
六太は子供の顔を見る。
「蓬莱、って」
「海のずっと東に蓬莱って国があるんだって。そこに行くと誰も喧嘩をしたり、酷いことをしたりしないの。お父さんがそこにいるの。ひょっとしらお母さんもそこにいるかもしれないでしょ? だからずっと探してるんだけど……」
言って子供は涙を浮かべる。六太はせつなくその姿を見つめた。
おそらく、父親は死んだのだ。母親はそれを言えずに、子供には蓬莱へ行ったと言った。──ありがちな話だ。その母親も子供を捨てざるをえず、捨てられた子供はいまも母親の言葉を信じて幻の国を探している。
「あのさ……蓬莱のある海はここじゃないんだ……」
六太が言うと、子供は目をまんまるにした。
「ちがうの? 海の東なんじゃなかったの? こっちが東なんでしょう?」
「この海は?#092;海っていう。蓬莱があるのはもっと東の海──虚海のことなんだ。でも、虚海の東のずっと遠くで、大きいのに?#092;ってもたどり着けない。本当に遠いところだから」
こちらから蓬莱へは行けない。虚海を渡ることができるのは、神仙と妖魔だけなのだと言われている。人には行けない。行くことができるのは卵果だけだ。
「そう……だったの……」
子供は肩を落とした。おそらくは親の所在を探して、子供は蓬莱を探していた。海の東だと聞いたから、?#092;海の沿岸を訪ねまわっていたのだろう。だが──妖魔は脅威だ。街に近づいた妖魔を人々がどう扱うか、想像がつく。もちろんそれは妖魔が人を襲うからなのだが、この子供はただ養い親の妖魔が人を襲わないようになりさえすれば受け入れてもらえると思っているのだ。
「……ごめんな」
べつにそれは六太のせいではないのだけれど、肩を落とした子供の姿は落胆の色があまりに露で、詫びずにはいられない気分にさせた。
子供は何度も息をついて小さく、来いよ、と鳴く。近くの岩場にいた妖魔が岩の上から身を躍らせて、子供の側に寄った。子供はその人血に汚れた毛並みに顔を当てる。
ああ、と六太はいまさらながらに気づいた。子供はろくにしゃべっていないのだ。よくよく思い返せば、子供は言葉をしゃべらずに、さっきから半分以上鳴いている。麒麟や神仙は妖魔や獣の意を悟る術を与えられているから、それでしゃべっているように聞こえただけなのだ。
妖魔は嘴の先を当てて子供の首筋をなでる。小さく鳴いた。これは言葉には聞こえなかったが、それでも戻ろう、と呼びかけているのは理解できた。子供は顔を上げる。しおしおと立ちあがった。
「……帰らないと」
「お前、また来るか?」
「……分からない。蓬莱がないんだったら、来てもしかたないね……」
言われて、六太は返答に詰まった。
「街に行くと、大人が待ってて大きいのに酷いことをするから……」
「……そだな」
それは必ずしも妖魔に対してだけではないだろう。襤褸の裾から出た子供の足には矢傷と思われる疵が幾つかあった。
「お前、街で暮らしたくないか?」
子供は振り返った。
「……大きいのも一緒に?」
「うーん。大きいのはだめだなぁ……」
「じゃあ、いい……」
そうか、と六太はうなずく。
「でも、もしも気が変わって、大きいのと離れても街で暮らしたくなったら関弓へ来い」
関弓、と子供は口の中で繰り返す。
「おれを訪ねて──ああ、でもお前、名前がないんだな」
「うん」
「なんか、つけろよ」
「分かんないよ」
「じゃ、つけてやる」
六太が言うと、子供は顔を輝かせた。
「──うん」
六太はしばらく考え込む。何度も首をかしげてから、ふと手を叩いて砂の上に文字を書いた。
──更夜
「更夜、っての、どうだ」
「どういう意味?」
「よふけ」
子供はそれで納得した。
「──うん」
更夜、と何度も嬉しげに繰り返す。
もう二度と会うことはないだろう、と思いながらも、立ち去る更夜に六太は手を振った。
「更夜、困ったことがあったら関弓へ来い。おれは玄英宮で働いてる。六太って言えば分かるから」
うん、と妖魔に騎?#092;した子供は遠目に首をうなずかせる。
「必ず来るんだぞ、更夜!」
3
六太が宮に戻ると、すでに帷湍らは退出していた。尚隆だけが机に向かっている。
「生臭い話は終わったか?」
六太が言うと、まあな、と手元に目をやったまま尚隆は答える。何をそんなに熱心に、とのぞきこむと、紙と太綱の天の巻が広げられている。
「朱衡に命じられたな。──どっちが主人なんだろな、ホントに」
「まったくだ」
言って尚隆は腕を組み、考えこむ風情である。六太がのぞきこむと、尚隆らしいおおらかな文字が連ねられている。
──一に曰く、天下はこれ金勘定をもって治むべし。
「……おい、こら、おっさん」
太綱の一は、天下はこれ仁道をもって治むべし、という著名な一文である。
「このうえ朱衡を怒らせてどーすんだ。朱衡は根にもつぞ。帷湍や成笙みたいな単純に頭が固いのと違って、ふかーく根にもってにこにこ笑いながら百年でも二百年でも嫌味を言うんだからな」
「なに、俺は堪えんから、構わんな。嫌味というのは、相手が気にしなければ張り合いがなくてつまらんものだ」
「朱衡ってかわいそう」
全部適当に書きかえてやろうと思ったはいいが、なかなか上手くいかんのだ、これが」
「……おれ、ときどきお前って正真正銘のバカ殿なんじゃないかと思う」
「ほう。ときどきか?」
「うん。常日頃は単なる大ボケ野郎だと思ってるからな」
こいつ、と飛んできた拳を六太はかわす。ひょいと部屋の大卓に飛び?#092;り、尚隆に背を向けてその上に胡座をかいた。
「──内乱になるか?」
「なるだろうな」
「……たくさん、人が死ぬ」
くつくつと笑う声がした。
「しょせん、国などというものは民の血税を搾り取って成り立っておるのだ。実を言えば国などというものはないほうが民のためだが、そこはそうと分からぬよう上手く立ち回るのが能吏の才というものだな」
「呆れた王だ」
「本当のことだろう。民は王などいなくても立ちゆく。民がいなければ立ちゆかないのは王のほうだ。民が額に汗して収穫したものをかすめ取って、王はそれで食っている。その代わりに民がひとりひとりではできぬことをやってやる」
「……かもな」
「畢竟、王は民を搾取し、殺すものだ。だから、できるだけ穏便に、最小限を搾取し、殺す。その数が少なければ少ないだけ、賢帝と呼ばれる。だが、決してなくなりはせぬ」
六太は答えない。
「……生き残った諸侯は五、梟王に屠られて空位のまま州官によって牛耳られている州が三。使える州侯は靖州候だけだ」
言って彼は六太を呼ぶ。
「靖州候に州師をお貸し願う」
「それはお前のもんだ。どうせおれには統帥できねーし」
宰輔は首都のおかれる州を与えられる。雁においては靖州がそれである。土地と人民があり軍があるが、実際にそれを統帥するのは王、土地も分割され諸官への褒章として割与される。
「……そんなに戦いが怖いか?」
尚隆に訊かれて、六太はふと顔を上げた。振り返ると尚隆はにや、と笑う。
「怖ければ隠れていろ。ここまで戦火が及ぶことはあるまいよ」
「そんなんじゃねえ。戦は民にとっちゃ、迷惑きわまりない話だ。それが嫌なだけだ。おれは民意の具現ってやつだからな」
くつくつと尚隆は笑う。
「麒麟は臆病な生き物だというからな」
「慈愛深い生き物だといってくれ」
「殺すまいと無理をして、のちに万殺すよりも、いまここで百殺して終わらせてしまったほうがましだろう」
六太は振り返り、尚隆に指を突きつける。
「そういう話をおれにするな」
「つれないな。せっかく百ですます、と見栄を張ったのに」
「百万の間違いじゃないのか?」
六太がねめつけると、尚隆は笑う。
「雁に百万もの民がいるものか」
六太は卓から飛び降りた。
「お前なんか滅帝で充分だ」
言い捨てて部屋を出ようとした背に、その声は投げられる。
「任せておけ、と言ったろう」
六太は振り返る。尚隆はいぜんとして机に向かったまま、広い背だけが六太のほうに向けられている。
「嫌なら目を瞑って耳を塞いでいろ。これは通らずにはすまない道なのだからな」
六太はしばらくその背を見つめる。やがて改めて踵を返した。
「おれは知らない。お前に任せた」
4
さすがに懲りた六太が朝議に参加し、おとなしく尚隆の後ろに控えてあくびを噛み殺しながら六官の奏上に耳を傾け、やっとのことで解放されて外殿を出ようとしたところで呼び止める者があった。
六太は足を止め、振り返る。官のひとりが膝をついていた。
「おそれながら、台輔にお目通りを願いたいという者が」
「おれに? ──官か?」
いえ、と官は答える。
「それが、国府のほうへ畏れおおくも台輔の御名をあげて面会を求めたものが。宮中で働いている、などと申しましたが、不審なことに宮中には台輔と同名の者がおりません。いちおうお耳に入れたほうがと」
六太は目を見開き、足を踏み出した。
「名を名?#092;っていたか?」
「はい。それが、更夜と言えば分かるはずだと」
信じられない、と六太は胸の中でひとりごちた。二度と会うことはないだろうと思っていた。さらに言うなら、生きてはいないかもしれないとさえ思っていたのだ。
「いま行く。──国府だな?」
「雉門に待たせてございます」
「すぐに行くから、決しておろそかにしないように。いいな?」
は、と頭を下げた官を見やって、大急ぎで踵を返した六太を、足を止めた尚隆らが首を傾げて見守っていた。
「──驚いたな。下界に知り合いがいたのか」
「おれ、尚隆と違って友達多いしー」
「友だと?」
「そ。──そういうわけで、おれちょっと出かけるから」
「午後の政務は」
こほん、と六太は咳払いして姿勢を正す。
「いかなる災異の前触れか、あるいは不徳の報いか、どうやら急疾のようでございます。本日は退らせていただきたく」
尚隆はにんまりとする。
「これは大事。黄医を呼ぼうか」
黄医は麒麟の主治医である。
「ご厚情はもったいなく存じますが、それほどのことでは。自室に退って横になっております。──そう言っといて」
亦信、と尚隆の傍らに控えていた成笙が、側に直立していた小臣を呼んだ。
「お供しろ」
「いいよ、成笙。そんなんじゃねえし。ホントに友達」
すでに走り出しながら六太は言ったが、成笙は目線で亦信を促す。亦信は一礼して六太の後に続いた。
雉門は関弓山の麓にある。山頂にある王の居宮と朝廷のあるのが燕朝で、臣下のうち高級官の官邸と府邸のあるのが内朝、下級官のそれは外朝、これは山の中腹にある。さらに下ると関弓山の麓に出る。そこにあるのが国府で、宮城の入り口の皋門から国府の奥の雉門までは市民が自由に出入りできる。それで雉門を中門ともいった。
六太は山を駆け下って雉門へ出る。凌雲山は文字どおり雲を凌ぐ山だが、内部を貫く道は呪が施されていて、実際に歩けばさほどの距離ではない。それでも広大な宮城のことではあり、礼服を脱がなくてはならないせいもあり、かなりの時間がかかってしまった。
息を切らせて雉門の内の建物に駆けこむと、言い渡してあったとおり、賓客をいったん休息させるための建物の中に人影があった。端然と椅子に腰を下ろして庭を見ている。出会ったのは十八年も前のこと、当時六太より小さかった子供は壮年の男になっているはずだが、その人影はまだ若い。十五か十六か。それでも青みを帯びた?#092;い髪をしていた。
「──更夜、か?」
心許なくなって室の入り口で足を止めてしまった六太が声をかけると、人影が振り返る。にこりと笑って立ち上がった。
「──六太」
言って彼は床に膝をついた。
「会いたくなって来てしまった。──台輔、お久しゅうございます」
深々と叩頭したので、六太がどういう地位の者だか分かっているのだろう。
「もう十八年にもなりましょうか。あの節には台輔とも存じあげず、失礼をいたしました」
身なりは整っている。語る言葉ももはや鳴き声ではない。
「お前、でも」
元州で出会ったあの子供と、目の前の少年が結びつかずに、六太はややうろたえる。彼は顔を上げて、ふたたび笑ってみせた。
「台輔もお人が悪い。ちゃんと宰輔だと言ってくださればよろしかったのに。後で人に金の髪なら台輔だと聞いて、どれだけ驚いたことか」
「あ──ああ、そうだな」
この国の人々はさまざまな色の髪を持つが、金だけはない。これは麒麟だけに特有の色なのである。
「台輔から名を賜るなんて。──でも、あの頃にそれを言われても、わたしには理解できなかったでしょうが」
「お前──いま、どうしてるんだ?」
「拾ってくれた親切な方があって、言葉から教えていただきました。いまはその方にお仕えして、官の末席に」
「仙籍に入ったのか。それで歳をとってないんだな……」
はい、と更夜は笑う。
「関弓へいらっしゃるのにお供をして、どうしてもお会いしたくて。台輔に面会を求めても門前払いでしょうから、お名前をお出しした。──やっぱり失礼だったでしょうか?」
「とんっでもない!」
「よかった。──実は台輔はわたしのことなど、お忘れだろうかと」
六太は首を振る。ようやく再開したのだと、そんな気分がこみあげてきた。
「忘れてない。──ほんとに久しぶりだなぁ……」
はい、と更夜は笑う。
「立てよ。更夜にそんな風にされると、なんか妙な気がする」
「かたじけのう存じます」
一礼してから立ちあがって首を傾ける。
「──六太として会ったんだから、これからもそれでいいんだろう?」
「うん。それでいい」
更夜は側に歩み寄ってくる。親しげに見下ろしてきて、少しせつない顔をした。
「……ずっと会いたかったけど、関弓はおれにはちょっと遠かったな」
「そうだよな。……ごめんな」
「あいつがいるから、あまり人里には行けなかったし。人里を通って道を訊かないと関弓がどこだか分からないし」
「あいつ? 大きいの?」
うん、と更夜はうなずく。
「大きいの、どうしてるんだ?」
「いるよ」
更夜は言って、悪戯めいた笑みを浮かべた。まるで共犯者に対するような。
「大きいのと一緒に護衛官をしてる。そこの彼と同じようにね」
言って更夜は六太の背後に気配を殺すようにして控えている亦信を見やった。
「ごめんな。こいつら、離れてくれないんだ」
「当然だよ。六太は尊い方なんだから」
「よせやい」
くすくすと笑って、更夜は軽く身を屈める。六太の顔をのぞきこむようにした。
「六太は城から出られるのか?」
「大丈夫。サボるって言ってきたし」
「じゃ、大きいのにも会えるね」
「近所にいるのか?」
「関弓の外にいる。──大丈夫、大きいのはおれの言うことを聞くから」
言って更夜は声をひそめた。
「大きいのもね、言いつけを守っているよ」
言いつけ、と首をかしげて、六太は思い出した。人を喰うな、と言ったことを。
「大きいのが? それ、すごいな」
六太はかなりのところ呆れている。妖魔が人を養う。その人間のいいつけを守る。──信じがたいことだ。
「行こう? 六太は、関弓に出たりする? おれは来た道しか分からないんだけど」
六太はうなずいた。
「まかせとけ。かれ、関弓には詳しいんだ。案内してやる」
5
関弓の街は雁の都、それでもその街はさほど大きくはない。少なくとも、蓬莱の都のほうが大きかった気が六太にはする。
雉門の内で六太は頭に布を巻く。こうして髪を隠しておかないと、さすがに民の目が気になる。麒麟の鬣はどうしたわけかいっさいの染料を受けつけないから、染めることができないのでしかたがない。
着るものはごく普通の身なりに着がえてある。造作もなく更夜と連れだって関弓の街に出た。さすがに亦信は背後からついて来ていたけれども。
亦信はもともと成笙の束ねる軍の士官、成笙が投獄されると成笙を慕う下士官の多くは辞職を願い、自宅に謹慎して成笙が牢を出るまで一歩も外に出なかった。その多くは辞職を許されず、さらに何割かは梟王によって出仕を命じられ、これを断って惨殺されたが、生き残った者がかなりいる。これが大僕成笙の下で護衛官を努めていた。成笙に心酔してよく武芸を修め、また成笙も目をかけていたほどの連中だから隙がない。その目をかすめて更夜とふたり、行方をくらますのは難行事なので諦めるほかなかった。
亦信もまた、油断なく周囲に視線を向けている。麒麟は一国に唯一の神獣、まかり間違っても害されることがあってはならない。麒麟だということを知れば民は直訴の機会だと殺到してくるだろうが、幸い髪を隠したせいでそれと気づいた者はいないようだった。
関弓は凌雲山の麓に扇状に広がる。街の周囲は隔壁によって守られていて、これに十一の門がある。そのひとつから外に出ると、そこには緑の斜面が続いていた。ほど近いところには農地が広がる。少なくとも関弓の周辺は豊かな田園風景をなしている。
更夜はこっち、と笑って小さな丘を越える。せめて街を出ないでいるよう、亦信がとめたけれど、六太は無視して更夜についていった。二十年分背丈の伸びた林の中に分け入ると、更夜がおおい、と鳴く。
「まだ、それ、できるんだな」
六太が感心して言うと、更夜はうなずく。すぐに林の中から、こっち、と鳴き声が聞こえた。
「大きいの、老けたか?」
「うん。人間ほどじゃないけどね」
「人よりも長生きなのかな」
「そうじゃないかな」
へえ、と六太はうなずく。使令には寿命がなく、人語をあやつり知能も高い。それは使令として契約したせいなのだろうと思っていたが、ひょっとしたら妖魔はそもそもそういう生き物なのかもしれなかった。
声のしたほうに歩いていくと、小さな野原があって、そこに赤い獣が待っていた。
「──天犬!」
叫んだのは亦信だった。亦信は身構え、腰の太刀に手をかける。六太はあわててそれをとめた。
「よせよ。あいつは大丈夫だから」
「しかし、台輔、あれは」
「確かに妖魔なんだけど。あいつはおとなしいんだ。更夜の言うこと、ちゃんと聞くし」
「まさか」
「不思議だろ? でも、驚いたことにそうなんだ」
六太に言われて、亦信は釈然としない気分で構えを解いた。それでも柄からは手を放さない。妖魔が人に馴れるなど、聞いたことがない。赤い身体の巨大な狼、青い翼に黄色い尾、?#092;い嘴。あれは天犬という妖魔にちがいない。妖獣ならば調教することが可能だが、妖魔は決して飼い馴らすことができないと、亦信はそう聞いていた。
「大丈夫だって。ほら、人がいる」
六太が笑いながらそういうので、改めて目をやると、妖魔の側には数人の人影があった。とっさに妖魔に目を奪われたので、気づかなかったのだ。
「ああ、……はい」
やっと柄から手を放した亦信を六太は笑って、更夜の顔を見る。
「おおきいの、変わってないな」
うん、とうなずいて、更夜は妖魔に歩み寄った。
「──ほら、六太だよ。覚えているだろう?」
言ってから、妖魔は側の男たちを見渡した。
「──見つかった?」
はい、と男たちは頭を下げたので、更夜の下僕だろう。官ならそれも不思議はないと、六太は男たちを見た。中のひとりがまだ小さな赤ん坊を抱いている。それを更夜が受け取るのを見て、六太はぽかんと口を開けた。
「まさか──それ、更夜の子供か?」
紺屋は子供を抱いて笑む。子供は穏やかに眠っている。
「いや。違うよ。これは、探してきたんだ。六太に会うから」
にこりと笑って更夜は子供を妖魔に差し出した。妖魔は鋭利な牙が並んだ嘴を開ける。ぎょっとした六太が声をかける間もなく、更夜はその嘴の中に子供をそっと置いた。
「──更夜!」
「大丈夫」
更夜は振り返って笑う。
「こいつはこうやって生き物を?#092;んだりするんだから」
六太はほっと息をついた。
「ああ、そうか」
でも、と更夜は笑顔のまま首を傾けた。
「六太や護衛の人が何かすれば、呑みこんでしまうよ」
「──え?」
「使令に動かないように伝えて。台輔が何かをなされば、ろくたが子供の頭を喰いちぎる」
亦信が瞬時に動いて六太の前に出た。その背に庇われながら、六太は呆然としている。
──ろくた、とつぶやいた。
「大きいのにもね、名前をあげたんだ。ろくた、って。──その頃は畏れおおいことだなんて、知らなかったから」
「更夜……」
「子供の命が惜しかったら、おとなしく一緒に来て。惜しいよね? 麒麟は慈悲の生き物だもの。血の臭いに耐えられず病んでしまうくらい」
「──更夜、お前」
更夜は亦信を見た。
「お前にも同行してもらう。抵抗はせぬよう。きっと六太がそれを命じるだろうから」
「貴様!」
亦信は柄に手をかけ抜刀する。麒麟は確かに争うことができる生き物ではないが、このままみすみす拉致されるわけにいくものか。たとえ御前を血で汚すことになっても、たとえ罪のない赤子を見捨てることになっても、かけがえのない宰輔を守らなくてはならない。
「亦信、だめだ! ──よせ!!」
六太の叫びには構わず、その腕を掴む。その場から六太を引きずって逃げ出そうとして振り返り、ぎょっと身を強ばらせた。亦信の背後にはいつのまにかひとつの影があったのだ。驚きに気を取られて、背後に忍び寄るものがあったことに気づけなかった。せめて人ならば足音で気づいたろうが、そこにあるのは人ではなかったのだ。
赤いからだ、青い翼、?#092;い嘴。
更夜が微かな笑いをもらした。
「妖魔はね、同族を呼ぶことができるんだよ」
亦信が太刀を振りかぶるより、その妖魔が嘴を突き出すほうが早かった。妖魔はすでに最初から亦信の喉笛を狙っていたのだ。
「──亦信!」
六太の叫びは悲鳴になった。妖魔の嘴は正確に亦信の喉を貫き、肉を食いちぎった。血糊が飛ぶ。それから身を庇ことができたのは、六太の身体を背後から抱きかかえて引き寄せる者があったからだった。
「──台輔、いけません」
女の声がかかった。六太を抱きかかえた腕は白い鱗に覆われている。白い翼が六太を包んで、顔を覆った。──六太の使令だ。
「──更夜ぁっ!」
翼に覆われても、亦信の声にならない悲鳴と血の臭い、忌まわしい音でなにが起こっているのか分かる。どさり、と身体が地に落ちる音、それきり絶えた亦信の息遣い。なおも続く、ものを食む音。それにかぶって、突然のように子供が泣きだす声が響いた。
「──更夜、なぜ……」
「台輔には元州までお?#092;びいただく」
元州、と六太はつぶやいた。
「使令にはおとなしくしているように命じて、子供の命が惜しかったらね。台輔を害そうなどと思っていない。ただ、わたしと一緒に来て、わたしの主に会ってもらいたいだけ」
「……主」
元州、と尚隆は言わなかったか。
「元州令尹でいらっしゃる」
「──斡由か」
六太は顔を覆った翼を押しのける。妖魔の傍らに立って、いまだ笑みを浮かべている更夜を見た。
「卿伯をご存知とは」
「……元州は何を企んでいる」
六太の問いに、更夜は答えなかった。ただ、色のない声が周囲の者を促しただけだった。台輔、と問う調子の声が背後からかかる。六太は首を横に振った。
「だめだ、沃飛。決して何もするんじゃない」
「けれど」
「放してくれて」
六太が言うと、身体を抱きかかえていた白い腕がおとなしく解けた。六太は背後を振り返る。心配そうにしている女怪にうなずいてみせた。
「沃飛、退っていろ」
鱗に覆われ、白い翼と鷲の下肢をもった女は迷うように六太を見返す。一呼吸して、蛇の尾を小さく振ってから消え失せた。六太の影の中に戻ったのだ。それを確認して、六太は改めて真っ向から更夜を見る。更夜はにこりと笑んだ。
「さすがは台輔。慈悲深いことでいらっしゃる」
2006-5-3 22:55
yubar
三章
1
更夜、と名づけられたばかりの子供はその頃、金剛山の内側に住んでいた。
金剛山は世界の中央、黄海を丸く閉じ、雲海を貫く峻峰が連なる。その金剛山の断崖にできた細い横穴が妖魔の巣で、この横穴は巨大な山を下りながらどこまでも続いている。ひょっとしたら黄海にまで通じているのかもしれなかった。
腐臭の漂う巣穴の中で、更夜は妖魔の首をのぞきこんだ。
「おれ、更夜だよ。これから、更夜って呼ぶんだよ。呼んでくれないと、おれ、また自分の名前を忘れるかもしれない」
言うと妖魔は、分かったと鳴く。
「大きいのも、名前がほしい?」
妖魔はただ首をかしげる。
「──ろくた、にしよう。そしたらおれも、六太の名前を忘れない」
更夜が出会った敵ではなかった初めての人だった。更夜を追うことも、妖魔を追うこともしなかった。逃げることもせずに側に来て、話をして、更夜に名前をくれた。
更夜は妖魔の首を抱く。
「ろくたも、人間の六太みたいに、たくさんしゃべればいいのに」
すでに寂しい、という言葉が理解できる歳になっていた。海を越えて陸に行くと街がたくさんあって、どこの街にも人がたくさん住んでいる。更夜のような小さい人や、更夜よりも大きい人がいて、手を繋いだり抱き上げられたりしていた。それを見るのが好きで、同時にせつない。街を行く親子や駆け回る子供たちを見ていると悲しくてたまらなくなるのに、街を去るとまたその風景が見たくて我慢できなくなる。
養い親の妖魔は、仲間を連れてくることがなかった。ときに別の妖魔に会えば戦ったから、そういう生き物なのかもしれない。だから更夜は妖魔とふたりきりだった。
人恋しさに街へ行けば、妖魔が人を襲う。そうすれば必ずたいそうな騒動になって、更夜も刀や槍で追いかけられる。妖魔には人を襲わないよう頼んだものの、妖魔は腹が空けば更夜の懇願など無視して人を襲うし、人のほうもたとえ襲わなくても妖魔と更夜を見れば悲鳴をあげて逃げていく。さもなければ武器をふりかざして追ってくるのだ。
更夜は妖魔の顔を間近からのぞきこんだ。何度もろくた、と呼びかける。
「お前、人を襲わないといいのに。そしたら一緒に関弓にいける」
ちいさいの、と妖魔は鳴いた。
「だめ。おれは更夜だよ。更夜」
小さいの、と妖魔は繰り返す。外に出ようと誘う声だ。
「ちゃんと呼んでくれないと、おれ、また忘れてしまう。ほんとの名前を忘れたみたいに」
更夜の手を引いて歩いた母親は、確かに何かの名前でもって更夜を呼んでいた。その名がどうしても思い出せない。
「更夜、って呼んでよ」
街を走る子供。子供を呼ぶ声。抱き上げる手、こつんと子供を叱る手、どれも更夜にはうらやましい。更夜の覚えている手は更夜を山に捨てた母親の手、海に更夜を連れていった男の硬い掌だけだ。
どうして更夜にはあの暖かそうな手がなかったのだろう。どうして人は他の子供には優しいのに、更夜を追って酷いことをするのだろう。海の向こうにあると聞いた蓬莱という国。そこへ行けばもう追われることもなくて、きっとあの暖かそうな手が与えられると思ったのに。それともどこか探したならば、荒野にも暖かく住むことのできる街があるだろうか。
「……六太」
更夜の話を聞いてくれた。食べ物をくれ、なでてくれた。名前をくれた。一緒に来いと言ってくれた。もしも一緒についていったなら、もっとたくさんの話ができて、いつも名前を呼んでくれただろうか。街で遊ぶ子供たちみたいに、じゃれかかったりできただろうか。
「……六太といっしょに行けばよかった」
でも、この妖魔は更夜を殺さなかった最初の生き物だから。
更夜は妖魔の首を抱いて赤い毛並みに顔を埋める。
「一緒にいけるとよかったのに人を襲ってはだめだ、と更夜は妖魔に言い聞かせた。空腹になれば目につく生き物を殺して喰うから、更夜が生き物を狩って与えることを覚えた。飢えなければ妖魔は更夜の願いを聞いてくれたので。
そうやって人を襲うことが絶えても、やはり人は妖魔も更夜も嫌うのだ。街の近くへいけば、必ず弓矢が雨降ってくる。もう海の対岸を尋ねる理由もないのだけれども、更夜には二度と行かないと決意をすることができなかった。
年とともに人恋しさは募ったが、人と交わる場所が更夜にはなかった。妖魔は相変わらず更夜を名では呼ばなかった。自分で自分に話しかけてやるしかなかった。
──ときどき更夜には六太に会ったことが夢なのじゃないかと思えることがある。あんなふうに妖魔にも更夜にも怯えず、親しげに話をしてくれる人がいたことなんて、振り返ると信じられないことのように思えるのだ。だから無理にも自分を更夜と呼び、妖魔をろくたと呼ぶ。どれほどひもじくても食べ物は妖魔に譲り、どれほど身体が辛くても妖魔のために食べ物を狩ることを忘れなかった。人を喰うな、という六太の言葉を守っていれば、六太に繋がっていられる気がしたのだ。
どこかに更夜が住む場所があるのではないかという夢は、投げつけられる悲鳴の数、放たれる弓矢の数だけ目減りしていった。いっそ妖魔と別れて関弓を探そうかと思うことも会ったけれど、小さいの、と慈愛をこめて呼ばれると、その気持ちも萎えてしまう。
しょせん更夜は妖魔の子だ。人には交わることができない。
諦めた頃に斡由に会った。六太に会ったのと同じく?#092;海のほとり、元州のことだった。
いつものように妖魔にまたがって陸に行き、石を投げて獣を狩った。兎の一羽や二羽で妖魔の飢え満たせない。それで食事をする妖魔の側を離れて、次の獲物を探しにいった。前に射かけられた矢が腕を傷つけている。痛くて痛くて寝ていることさえ辛かったが、妖魔には餌を与えなくてはいけない。そこに矢が降ってきたのだ。
更夜は鳴いて林の中に逃げこんだ。矢を射かけられたことなど数え切れず、鏃がうがった傷も数えきれないほどだけれども、今現在痛みを訴える疵があれば、慣れなど吹き飛んで消えてしまう。
林の中に転がりこんで、繁みの中に身を隠した。ぴたりと矢がやんだ。
「──子供、出てこい」
朗々とした声がした。息を殺す更夜に、なおも声がかけられる。
「お前、さきほど妖魔の背にまたがって、空を飛んでいなかったか」
更夜には人の言葉がほとんど理解できないが、この男がなにを言っているのかは不思議に分かった。その声が怒声でも悲鳴でもないのに気を引かれて、繁みから顔をのぞかせた。
林から続く斜面の上に、数人の男が立っていた。ほとんどが膝をついて弓を構えていたけれども、その中にひとり、その前に立って腕を組んでいる男がいた。
「どうした、出てこないか」
言って男は周囲を見やった。
「怯えているようだ。──やめよ」
しかし、と言う近従に、男は手を振る。近従たちはいっせいに弓を下げた。
更夜は武器が収められるのを見て、また少しだけ繁みから顔をのぞかせてみた。男と視線が合った。笑った男は妖魔と同じ赤い髪で、右の蟀谷の一房だけが白い。それがなんとなく警戒を解かせて、更夜は膝をついて身を起こした。
「出てこい。何もしない」
優しげな声だった。それで更夜はそろそろと繁みを出る。追わない人間の側なら寄ってみたかった。それほど人が恋しかった。
男は屈みこむ。手を差し伸べた。
「──来い。打ったりはしないから」
さらに気を惹かれて繁みを出ようとした更夜を呼び止めるものがあった。およし、と咆哮に似た声がする。激しい羽音がして礫が落ちてくるように目の前に妖魔が降り立った。妖魔は奇声をあげて男たちを威嚇する。そうしながら後足を伸ばして腰を下げた。──更夜に背に?#092;れ、と促しているのだ。
弓を下ろしていた男たちがいっせいに再び弓を構える。それを膝をついた男が止めた。
「──よせ。射るな」
命じて、男は怯える様子もなく更夜と妖魔を見比べる。ひどく興味深げな表情だった。
「面白いな。その妖魔、お前を守っているのかむ
言ってもう一度手を伸べる。
「来い。お前にも妖魔にも何もしない。──そうだむ
男は言って、背後を振り返る。弓を下ろしたものかどうか、迷っている風情の男たちに鹿を出せ、と命じた。
「そら。お前も狩をしていたろう。石では鹿は狩れまいむ
更夜はきょとんと男と鹿を見比べた。くれたとしか思えないのだが、その理由がわからない。男は更夜の視線を受けて笑う。
「お前も鹿を喰うのか? それともこちらのほうがいいか」
男は言って、腰の袋から緑の葉でくるんだ包みを取り出す。目の前で葉を剥いてみせると、中には蒸した穀物を握り固めた餅が出てきた。
更夜はそれを覚えている。六太がくれたあれだ。
ん、と男は首を傾ける。
「ほしくはないか? やはり肉のほうがいいか」
更夜は繁みを出、林を出た。妖魔がおよし、と鳴いたけれども、更夜はそれに従わなかった。代わりに男に向かって鹿を指さす。鹿と妖魔とを代わる替わるに指すと、男がうなずいたので、妖魔に向かって笑ってみせた。
「くれるんだって。食べていいから、人を襲ったらだめだぞ」
不審そうに鳴いた妖魔は、それでも身を?#092;り出し、鹿の足を銜えて足元に引いた。更夜はそれを見てそろそろと男のほうへ向かう。油断なく男たちを見守ったが、特に酷いことをされそうな気配がない。それで安堵して膝をついた男の側に寄り、その近くに座りこんだ。
男はそろりと手を伸ばす。少し怯えて身を引いた更夜の頭に手を置いた。大きな温かな手だった。
「不思議な子だ。あの妖魔を飼い馴らしているのだな」
優しげな声がくすぐったくて、更夜は身を引いた。掌の感触が消えると、そこがひどく寂しかった。
「……触られるのは嫌か。獣のようだな」
そういうわけじゃない、と更夜は首を振る。
「いい。嫌がることはすまいよ。──どこの子だ。近隣に天犬を連れた人妖が出ると聞いたが、まさか本当に人の子だとはな」
更夜はただ男の笑みを浮かべた顔を見る。
「名はないのか? どこに住んでいる?」
「──更夜」
更夜は答え、名?#092;れる自分にささやかな感銘を覚えた。名を持つ自分、それを尋ねてくれる人のあること、そんな場面を何度も夢見ていたような気がする。
「更夜か。更夜は近郊の子か?」
呼ばれて嬉しかった。至福感に満たされて、更夜は背後を振り返った。林の上に天に向かってそびえる山々が見える。それを指さした。
「金剛山に住んでいるのか。黄海──はないだろうな。あれには人も獣も出入りできないというから」
「崖」
更夜が言うと、男は破顔した。
「そうか、崖に住んでいるか。お前はわたしの言葉を理解しておるんだな。利口な子だ」
男は言って再び更夜の頭に手を置く。今度は更夜もなされるままになっていた。
「いくつだ? 十二か、そのくらいか」
「知らない」
「親はないのか}
更夜はうなずいた。
「口減らしのために?#092;海に投げこまれた子供が多かったというが、お前もそれか。よく今日まで生き延びた」
「……ろくたが」
更夜が妖魔を振り返ると、男は鹿を食んでいる妖魔を見やる。
「これは驚いた。妖魔に養われたか。あれはろくたというのだな」
「……うん」
男は微笑い、ふと更夜の左腕に目をやった。
「──どうした。怪我か。膿んでいる」
更夜がうなずくと、腕をとってしけしげと見る。
「中に鏃が残っているな。これは手当てをしたほうがいい」
男は立ち上がる。更夜はそれをせつない気分で見上げた。このまま去っていくのだろうか。
──だが、男は手を差し出した。
「来い。更夜はもう少し、まっとうな暮らしをしたほうがいい」
「来い?」
「わたしは斡由という。頑朴にいる。──分かるか?」
更夜は首をかしげた。
「わたしの住まいに来い。お前には手当てと衣服と教育が必要だ」
「ろくたも……一緒?」
おそるおそる訊いた答えには眩しいほどの笑みが返ってきた。
「もちろんだ」
2
関弓から元州の首都頑朴までは、徒歩でひと月の距離である。更夜は妖魔を、その他の近従は妖獣を?#092;騎としていたから、空行わずかに四半日ほどの旅になった。
六太はおとなしく更夜に縋るようにして妖魔の背中に?#092;っている。確かに妖魔から血の臭いはしなかった。更夜が言った、言いつけを守っているという言葉は嘘ではない。
中天の太陽が大きく傾くまでの空の旅の間、更夜は六太に問われるまま、斡由に仕えるようになったまでを語った。
「卿伯は本当に頑朴へ連れていってくれて、そこでいろんなことを教えてくれた。ろくたにも──ああ、大きいのにも餌をくれて喰わせてくれた。だから大きいのは生き物を襲わなくてよかった」
「じゃあ、最近はぜんぜん襲ってないのか?」
「そうでもないけど。──卿伯が俺を護衛に召し上げてくださって。拾われてから三年ぐらいしてからかな。危険があれば卿伯を守って人でも獣でも襲うよ。──襲わせる。努めだからね」
そうか、と六太はつぶやく。下げた視線の先に、傾いて赤く染まった陽を浴びて大きな街が見えてきた。ひょっとしたらその街は関弓よりも大きいかもしれない。
「あれが、頑朴?」
「そう。──関弓よりも綺麗な街だろう?」
それは事実だった。街は関弓よりも整備され、見下ろした周辺の山野も、関弓の周辺に比べ、ずっと緑が多かった。
「元州は豊かなんだな……」
六太がつぶやくと、更夜は笑って振り返る。
「だろう? 卿伯がいるからね。卿伯はいい人だよ。街の者にも本当に慕われている」
言ってから、更夜は少し六太の表情をうかがうようにした。
「延王よりも、頼りになるって」
六太はこれにうなずいた。
「かもしんない。尚隆は莫迦だから」
更夜は目を丸くする。
「六太は延王が好きじゃないの?」
「別に嫌っちゃいないけど。けどあいつ、本当に莫迦なんだもん」
「なぜそんな莫迦に仕えている?」
「しかたないから。──更夜は斡由が好きなんだな」
六太が訊くと、更夜は笑んだ。
「卿伯のために六太を脅して攫ってくるぐらいにね」
──だが、斡由は逆?#092;だ。六太は言葉を呑みこんだ。六太を攫わせただけで罪状は明白、しかもしばしば元州の者がやってきては武器を仕入れていくという。?#092;反だ──他には考えられない。
王は麒麟が選ぶ。そのように決まっている。だが、その決まりを受け入れないものもいる。王を倒して玉座を狙った者は歴史につきない。
六太は背後を振り返った。靖州のある山々は遠く霞んで見えない。
尚隆はどうするだろう。──少しは狼狽するだろうか。
元州州侯の城は関弓と同じく、頑朴山と呼ぶ凌雲山のその山頂にある。?#092;騎らは頑朴山の山腹にある岩場に降り立ち、そこから六太は雲海の上に連れていかれた。元州城である。
広間には数人の官の他に、ひとりの男が待っていた。外見はまだ若い。赤と言っていいような濃い茶の髪をしていた。
六太の両腕は左右の男に掴まれている。その後を更夜と妖魔がついてくる。妖魔は依然、その嘴に赤子を含んでいた。とぎれとぎれの泣き声が軽く閉じた嘴の中から響いている。
斡由は元州候の息子だった。官は州侯を補佐して州六官を束ねる令尹、位は卿伯、その斡由は州侯の座について六太を迎えた。
「更夜、足労だったな」
斡由は暖かな声でねぎらい、席を立つ。壇上から下りて六太を代わりにそこに上がらせ、入れ替わるように階下に膝をつき、深く叩頭した。
「台輔には申しわけなく存ずる」
六太は虜囚だ。そう覚悟していたものを、いきなり頭を下げられて、六太はややうろたえた。
「……斡由か」
六太の問いに、斡由は顔を上げた。
「州侯は臥せっておりますゆえ、令尹の拙が御前を穢す無礼をお許しください。卑怯非道なお誘いは承知の上、お詫び申しあげる言葉とてございませんが、なにぶんご容赦を」
「……何を企んでいる。目的は何だ?」
「とりあえず、漉水、と申しあげましょう」
六太は眉をひそめた。
「──漉水」
「漉水は元州を貫く大河。梟王が堤を気って以来、下流の他県は雨期のたびに襲う水害に泣いております。幸いこれまで流域の里櫨が壊滅することはありませんでしたが、その好?#092;がいつまで続くか。早急に大がかりな治水工事が必要ですのに、王はそれをご裁可くださらない。元州でそれを行おうにも、王は州侯から治水の権を取り上げておしまいです」
六太は唇を噛んだ。──自業自得だ。いまごろ尚隆らは慌てふためいているだろうが、身から出た錆というものだろう。
「そもそも各州は州侯に下された治領のはず。梟王より候を賜った州侯がお目に障るのは重々承知しておりますが、権までをお取り上げになるとはいかがなものか。国の治世だけでは国土の端々までお目がお届きになりますまい。実際、雨期も近いというのに、漉水は荒れたまま」
斡由は膝をついたまま六太を見上げる。
「再三の奏上にもお耳をお貸しくださらない。思い余ってこのような手段に及びました。ご立腹とは存ずるが、台輔ばかりは拙の奏上をお聞きください」
──それは危険だ、とかつて六太は尚隆に進言した。
王の統治だけでは国土の隅々にまで治は行き届かない。ゆえに権を分割し、州侯をおいて州の統治を委ねているのだ。いくら先帝が任じたにしろ、彼らから権を取り上げて果たして王ひとりで九州の統治がなりたつか。
言ったが、聞き入れてはもらえなかった。尚隆はおおむね、やりたいようにやるのだ。尚隆は王、何かを強制できるものもいない。側近を集めるといっても手足として使うだけ。朱衡や帷湍は側近中の側近だが、彼らが何かを言ったからといって、尚隆にその気もないことを行わせることなどできはしない。
今日までいったい、六太がどれほどの進言を行い、諫言を行い、それが無視されてきたか。王は国権を束ねる。国の最高権力者だ。その王が何かをしようと決意すれば、とめる方法はないに等しい。梟王の暴虐を誰もとめることができなかったのと同様に。
六太は深く息をついた。
「王にそのように申しあげ、処分のなきようお願いしよう。──そう言えば帰してもらえるのだろうか?」
斡由は平伏した。
「おそれながら、台輔にはいましばしご不遇をご容赦願いたく」
「──王が真面目に取り合ってくれるまでの人質ってわけだ」
「申しわけございません」
「……分かった」
斡由は驚いたように顔を上げた。
「お聞き届けいただけるのでございますか」
「うん。斡由の言い分はもっともだと思う。手段は非合法だが、あの莫迦に言うことを聞かせるには他に手がない。しばらく厄介になる」
斡由は感謝をこめたまなざしを向け、深く深く叩頭した。
「ありがたく存ずる」
「うん」
六太はつぶやいて、斡由の背後に控えた更夜を見る。
「これが、更夜の主人か」
更夜はただ笑んだ。
3
六太は城の深部に連れてゆかれる。おそらく凌雲山の基底部だろう。相当に下がった場所に一室があった。扉を開くと、鉄格子の向こうでひとりの女が立ち上がった。
「──台輔」
「……驪媚」
驪媚は元州に差し向けられた牧伯、牧伯は王の勅命によって州侯を監督する。実権の凍結された州侯?令尹に代わって内政を取り仕切っているといってもよかった。六太自身が治める靖州を除く八州に差し向けられた八牧伯とその下官、そして帷湍、朱衡、成笙らが率いる下官とが、奸臣の中で尚隆を支える側近だった。
格子が上げられ、更夜らが六太を連れて室内に入る。六太は息を吐いた。
「そりゃあ、驪媚だって捕らえられるわな。尚隆の犬だもんな」
「台輔まで」
「うん。まあ、我慢してくれな。こりゃ、どう考えても尚隆の自業自得だ」
「そんな」
「あいつが浮かれ遊んでるから、こういうことになるんだって。お互い、しばらくここでのんびりしよーや」
驪媚は更夜を見る。
「台輔に滅多なことをするのじゃないぞ」
更夜はただ笑った。
「もちろん、害すようなことはしないとも。──六太、でもいちおう虜囚ということになるからね」
「分かってらい」
「ここへ」
更夜が示すので、六太はおとなしく更夜の側に行った。更夜は懐から赤い糸の束と白い石を出す。その白い石を額に当てられて、六太はとっさに身を引いた。
「──よせ」
「だせだ。動かないで。……子供がいるよ」
六太は入り口に座っている妖魔に目をやる。妖魔がこれみよがしに嘴を開いて、そこから小さな腕が見えた。
「……抵抗するわけじゃねえけど、おれ、やなんだよ」
「額には角があるからね。でも、その角を封じさせてもらいたい。使令には油断がならないから」
六太は本来、人ではない。意志の力によって本来の姿──麒麟に戻ることもできる。その麒麟の姿になったときに額にある一角、これがおそらく妖力の源なのだろうと思われる。だから角──人の姿であるときには額の上のほうの一点──に人が触れるのが疎ましい。角を封じられれば、妖力も封じられるだろう。おそらく、使令を呼び出して使うこともできなくなる。
「ホントにやなんだぞ。単にやだってのとは違って、すっげー嫌なんだからな」
「妖魔にもね、そういう逆鱗があるみたいだよ。……さ」
言われて、渋々上を向く。まるで神経が露出しているような、鋭敏すぎて何かが触れれば苦痛さえ訴える場所にひやりとしたものが当てられた。本能的に逃げそうになる身体を意志の力を総動員してなだめる。
「……痛い。気持ち悪い。吐きそう」
「我慢して」
赤い糸が石を押さえるように渡される。更夜はそれを六太の頭に結んで結び目に呪を唱える。それでふいに苦痛はやんだ。。そのぶん、体の中に空洞のようなものができた気がする。
「まだ苦しい?」
「平気。け